詩人にして書評家であった疋田寛吉先生

( 1923-1997、詩人.書評家.「荒地」同人 .
著作・「抒情詩のためのノート」(鮎川信夫・共著)
「書人外書伝」
「我流毛筆のすすめ」
「書美求心」
詩画集「漏刻」等 )

が、その著作「我流毛筆のすすめ」で、書の我流を説かれたのは1986年のことでした。
当時の私にとって書のイメージは、幼い頃の「お習字」の体験につながり手本の形を模す堅苦しく窮屈な、面白味の無いものとしての印象を強く持っていました。
その後も読解が困難な書に接するたびに、ますます興味を失い、自分とは係わりの無いものとして過ごしてきました。
この様な思いは、私以外にも大勢の方々がお持ちなのではないでしょうか。
そんなおり、思いもしなかった書の世界へのドアを開いてくれたのが、
疋田寛吉先生の著作「我流毛筆のすすめ」(1986年、読売新聞社)でした。
この中で先生は、毛筆の書が日常のものでなくなったことに心を砕かれながら、
「そつなく、見栄え良く書かれた「書」、いかにも手慣れて達筆風に書き流された「書」を排し、人それぞれの気性によく似かよった、他人に模倣出来ない筆跡であつて同時に何か知ら面白いところがうかがわれる書を評価する。書の美醜ではなく、書にあらわれたその人の投影が問題である」と説かれています。
この著作に触れ、アッこれならば、自分にも毛筆を楽しむことができるかもしれないという好奇心を持ちました。
疋田先生の語られる「我流毛筆のすすめ」を通して書に親しむことになった私の今の心境は


「漢字には、一字一字に意味がある。
その意味のイメージが僕を『一字書』にむかわせる。
漢字自体が持つ造形的な成り立ちに、自分のイメージをどう託せるか。
その造形をどこまで自分独自のものとして創作できるかが、あくなき面白さとして、僕を虜にする。
書を既にあるべきものとして模すのではなく、個的な感性が無心にとらえた先例の無い造形として考える自分には、書のアート性といった問題が絶えずちらつき、書に於けるアクションペインティングといったことにまで、思いがはせる。
しかし、その前に、何かがあるように思えてならない。
漢字という定まった意味と形の中にその呪縛をすりぬけて自分の手が生むイメージの造形世界があるのではないか。

 僕だけが描いたイメージを僕だけの形としてとらえる。
 そんなスリルに満ちた自己発見の旅が他にあるだろうか。」



こういった思いとなって「一字書」に向き合っています。