1986年 疋田寛吉 主催「我流毛筆の会」入会 洋画家 青木正春 |
青木正春 (1921-2002) 1921 岡山に生れる 1943 独立美術協会展 入選 1947 東光会展・日展 入選 1949 東光会賞受賞・同会会員 1955 自由美術家協会展 入選 1955 自由美術家協会 会員 1958 第41回ピッツバーグ国際現代絵画展出品 1963 岡山県美術展審査員 2002 「青木正春の軌跡」出版 |
昆虫収集家 平田信夫
グラフィックデザイナー 田中一光
映画評論家 飯島 正 1902-1996
僕が先生と出逢ったのは1964年、早稲田で先生の講義[映画の美学]を受講した時であった。
当時、白水社刊行のクセジュ文庫に収録されていた、アンリ・アジェルの[映画の美学]を
テキストに映画理論について、その博覧強記の授業は僕等に強い刺激を与えた。
この稿を書く為に本棚の奥からみつけたアジェルの[映画の美学]の頁をめくると、
そこには綿密な書き込みがいたるところに挿入されていた。
当時は全共闘の学園紛争直前の時代。それでなくても「書を捨てて街に出よう」の実践に
明け暮れていた僕にしては、如何に先生の授業に魅入られていたか懐かしく思い出された。
先生は東大・仏文の出身で確か渡辺一夫と同級生。フランス文学に精通し映画評論家として
特にフランス映画に関する著作が多かった。
後に知ることとなるが、先生はフランス語以外に、英語、イタリア語、ハンガリー語、スペイン語、
中国語にも堪能で、研究室の書棚にはそれらの言葉で綴られた無数の本が積み重ねられていた。
授業ではもちろん、授業を離れた雑談の中でも何気なしに語られる先生の知識の広さに驚き、
また青年のような好奇心の旺盛さに僕等は舌を巻いた。
僕が先生に強い好奇心を持ったのは、当時心酔していた梶井基次郎の日記の中に、
飯島正の名前を見たからだった。京都の旧制第三高等学校で梶井が参加していた文学同人誌「青空」に
関するくだりにその名前が記されていた。
果たしてこの飯島正は我々の先生と同一人物か。
もし同一人物なら梶井のことを聞かせて欲しい。熱い思いを持って先生を訪ねた。
先生は「青空」の同人であった。
根掘り葉掘り乱発する僕の質問に先生は遠い日の記憶を思い起こしながら色々語ってくださった。
正に梶井基次郎の実像に迫る思いもよらぬリアルな証言に僕は我を忘れて酔っていた。
この時を持って、梶井基次郎と青春を共に過ごした飯島正は僕にとってかけがえの無い存在となった。
辞して去る時先生は
「君はそんなに梶井に興味を持つのに僕には興味を持たないのかね」と細い眼で笑われた。
その言葉をきっかけに僕は先生の大学院の授業の聴講を許されることになった。
僕が卒論に「フランス前衛映画に於けるダダ・シュールリアリズムの影響」を書いたのはその授業で
1940年代のフランス映画、特に前衛映画と云われた作品に関する知識を先生から与えられたからだと思う。
当時のダダイストやシュールレアリストであった芸術家達のなかで映画に強い関心を持ち
自らも映画に手を染めた画家 フェルナンレジエを始めとする人達のもたらした映画への影響。
映画人でありながらシュールレアリストとして前衛映画を撮ったルネ・クレール等の作品分析を通して
課題のテーマに迫ろうとした卒論だった。
先生はこの視点を評価してくださり、様々な助言を下さった。
先生からは色々な知識は教わったがその後の人生の中で大方の事は忘れてしまった。
ただ今も耳に響く先生の言葉
「君、偉大なるディレッタントに成りたまえ」は忘れる事が出来ない。
この言葉をどう捉えるかは様々であると思うが、僕は「好奇心を持って雑多な幅広い知識と情報を持つことで
バランスのとれた常識的知識人になれ」と捉えている。
当時文学や映画を探求する事は生活を省みない、現実を回避したデラシネ的人生観を生きる者として
世の中からは疎んじられる存在であった。
しかし先生は生活の糧となる知識以外に重要な知識があることを言いたかったに違いない。
視覚的によく見る事。そこに点在する知識と情報。そこから感じる事を知的に思考してみる。
映画を見つめてきた先生のこの姿勢は実人生に於いても正にあり得るべき姿勢ではないか。
「幅の広いバランス感覚のある知的な人」
先生にうながされた人物像であった。
詩人・書評論家 疋田寛吉
あれは1986年(昭和61年)頃の事だったと思う。
青山の表参道から根津美術館に向かうファッション・ブティックが連なる華やかな通りを
左折した路地裏にモルタル二階建てのどうみても学生相手としか思えない老朽化したアパートがあった。
当時はまだ都内のあちこちにこのようなアパートを見る事はあったが、南青山の一角に
こんなものがあったのかと思わずにはいられなかった。
人気のないひっそりとした佇まいは時代からも周囲からも取り残され、
そこだけが時間を停止しているような感じを抱かせた。
このアパートの2階に、詩人であり、編集者であり、「書」に関する著述家でもある
疋田寛吉先生の事務所があった。
僕が先生をお訪ねするまでには次のような経緯があった。
ある夜、行きつけの酒場で古くからの友人がポツリ「最近「書」を始めたんだ」と言った。
意外だった。
彼の語るところによると、タイトルに惹かれて偶然手にした本を読み、「書」に対する考えが、一変してしまったらしい。
「自分でも「書」をやれるかもしれない。やってみたい」という気持になり、著者を訪ね最近始めたと言う。
その話が気になりさっそく買い求めた疋田寛吉 著「我流毛筆のすすめ」(読売新聞社)は
友人が持った思いと同じものを僕にも与えた。
その中に次のような一文があった。
そつなく見栄え良く書かれた「書」
いかにも手慣れて達筆風に書き流された「書」
排し、人それぞれの気性に良く似通った、
他人に模倣出来ない筆跡であって、
同時に何かしら面白いところがうかがわれる書を評価する。
書の美醜ではなく、書にあらわれた、その人の投影が問題である。
此の文章に魅かれるものが有り、「書」をやってみる気になったのだが、
実はもう一つ僕の好奇心を強く惹いた事があった。
疋田寛吉という人が戦後間もない頃、鮎川信夫・田村隆一・北村太郎・三好豊一郎・
黒田三郎・中桐雅夫といった詩人が華々しく活躍した詩誌「荒地」の同人であったことだ。
先生との初対面は畳六畳一間に小さな流しとトイレが付いた部屋だった。
先生の著述用のデスクが窓を背に置かれ、その前に小さな文机が有り、筆、硯、紙、
そして古い拓本が用意されていた。
先生に奨められるままに墨を摩った。
立ち上る墨の香りが気持を静め、かすかに響く摩り音が快よかった。
その日は筆を取ることなくおいとましたが、先生は何も言わなかった。
それから月に二、三度こちらの都合の良い日にお訪ねし、墨を摩りながら
詩や小説、美術に関する、とりわけ近代の芸術家の書についてのお話を伺うことになった。
「書」の手ほどきを得る為にお訪ねしていながら、数カ月の間僕は一度も筆を取ることはなく、
ただ墨を摩り先生のお話を聞く事を悦びとしていた。
先生も書くことを促す風も無く、僕の摩った墨はいつも手つかずのまま硯の中で黒く光っていた。
こんな具合で三カ月も経った頃、先生は突然
「私癌にかかりましてね。
手術を受けることになりました。
無事生還できれば六ヶ月後ぐらいに成るでしょうが連絡します。
もうお逢いできないかもしれないが」と、まったく感情を交えない表情で仰った。
元々顔色の悪い方と思い、さして気にも留めなかったが、その言葉を聞いて
愕然とすると共に「そうか」という妙に納得のいく気持が走ったのを覚えている。
しかし何よりも僕が感じ入ったのは、
このように自分の死の覚悟を語って動じない先生の腹の座った態度だった。
その年の晩秋の頃、顔色も良く、すっかり御元気になられた先生と再会する事が出来た。
再び墨を摩り先生が編集者として深くかかわった
川端康成・保田與重郎、大岡信といった方々の事。
「荒地」の同人であった鮎川信夫・北村太郎・三好豊一郎・田村隆一といった
詩人の話を伺う時間を取り戻すことになる。
そんなある日先生が「昔の人は「墨摩り三年」」と言ったけど、
もうそろそろ何か書いてみたらどうかと仰った。
先生の元に通うようになって、かれこれ一年半になっていた。
この間僕は先生の話に酔い、「書」に関心を持つことがなかった。
華やかな表通りの路地奥にひっそりと佇む六畳一間のこの小さな部屋は
僕にとってタイムスリップした知の空間と言った場所であったように思う。
小学生の頃のお習字の時間以来、毛筆を握った事のない自分に戸惑いながら
開き直って、何の脈絡も無く浮かぶ漢字を一字ずつ書いていった。
恥ずかしい「書」であった。
意と思いが少しも形にならない自分が嫌になる「書」であった。
しかしそんな僕の「書」を先生は誉めてくれた。
1998年お亡くなりになるまでの12年間、先生は欠点だらけの僕の「書」に
一度たりとも否定的な事は仰らなかった。
駄目なものにはただ沈黙され、ほんの少しでも良いと思われる点を刻明に見出して、
とても嬉しそうに喜んでくれた。
先生の一貫したこの態度は僕だけに向けられたものではなかった。
先生の部屋があまりにも狭く「我流毛筆の会」会員である我々は、
時間を調整し合い、日頃互いに顔を合わせる事が無く、
それぞれの会員に対する先生の接し方を知らなかった。
先生がお亡くなりになった後、会員から「先生に誉められたから、ここまでこれた」
という多くの声を聞いた。
「書」という中々入り難い世界に入れたのも、我々に対する先生の心遣いによるものと痛感した。
先生との出逢いがなければ僕は決して「書」の世界を楽しむ事にはならなかったと思う。
偶然であり必然とも言える幸福な出逢いを感謝せずにはいられない。
先生と接した12年間を思い返してみると様々な思い出が甦るが、
中でも夏になるとおじゃました北軽井沢の先生の別荘での時間は忘れる事が出来ない。
1998年 先生の体調が思わしくなく青山の事務所を閉じる事に成り、最後にお訪ねした折
僕が10年近く愛用していた大筆と硯をいただいた。
それは先生の形見の品となった。
いよいよ先生の容態が悪化し、楽天的な僕にも覚悟しなければならない日の予感がよぎるようになった。
「書」をやって来たとはいえ、全紙に大筆で一字書しかやった事のない自分であったが、
小筆を持ち、先生にお逢いできて僕がどんなに幸福であったか、そしてどんなに多くの事を学んだか。
ほとばしる感情に時折涙を拭いながら必死で手紙を書いた。
上手も下手も無い、ただこみあげてくる思いを無心に綴ったものだった。
伝えたい思いに集中し、何の飾る心も無く書けば、「書」の技術を超えてそれなりのものに達する事をその時知った。
それは僕の「書」に対する小さな開眼だったかもしれない。
書き上げたものは明らかに惜別の手紙であり、先生の病状をあからさまにするようで
お渡しする事がためらわれたが、御自分の運命についてあれほど淡々とされていた先生である事を思い返し御送りした。
先生がいらっしゃらなくなってからしばらく筆を持てなかった。
自分一人では進むべき「書」の方向も見えず、何が良い「書」か皆目見当がつかなかった。
「書」を止めようと思った。
先生を失って、自失し「書」から離れた時間が流れた。
そして二年後の2000年、先生の薫陶を受けた数人の人達と新たなメンバーを加え
「我流毛筆の会」を再開。現在に至っている。
人から何かを学ぶ、それには様々な形がある。
瞬間的に教えられた事を自覚することもあれば、
ずいぶんの歳月が経てからその事に気付くこともある。
先生から学んだ事はいつも忘れかけた頃甦る感じで自覚させられるのだった。
僕が先生から学んだ事は僕に向けられた言葉からではなかった。
こうあらねばならないという自分を律する生き方じゃ無く、自由で何ものにも囚われる事のない
ひょうひょうとした態度に漂うお人柄といったものからだった。
先生は
・大方の事に対して、決して怒りをあらわにする事は無く、
人を誉めても悪口や否定する事はなかった。
・自分の利になる事については控え目であった。
・良きもの(人間であれ、芸術であれ、文学であれ)に対して、あくなき好奇心の持ち主だった。
こういった先生に僕は人間の品格と言っても良いものを感じ取っていたのだと思う。
疋田寛吉 著書