書歴

                   1986年 疋田寛吉 主催「我流毛筆の会」入会
                   1991年 第1回個展(京橋 京画廊)
                   1992年 「我流毛筆展」出展
                   1994年 「我流毛筆展」出展
                   1996年 「我流毛筆展」出展
                   1998年 疋田寛吉先生死去
                   2001年 第2回個展(パリ ESPCE JAPON)
                   2002年 第3回個展(西麻布 ブラックホール)
                   2006年 第一回 新「我流毛筆展」出展
                   2007年 第二回 新「我流毛筆展」出展
                   2008年 第三回 新「我流毛筆展」出展

           我流の書をめざす私ですが、我流の書とは自分流の書ということになります。
           それでは、書に於ける自分とは一体どんな自分なのでしょう。
           中々難しい問いで、今だその自覚を持てることができません。
           そこで私のプロフィールを印して私という人間の理解につなげてもらえればと考えました。
           それでは私のプロフィールをどのような形で描くことが
           私の理解につながるか?考えた末
           私が今まで出会い、とても大きな影響を得た人々の事について語ることで
           今の自分を見つめ、自分を語ってみようと思いつきました。


      洋画家 青木正春

       先生のアトリエに伺うようになったのは僕が6才ぐらい、確か1950年代の事でした。
      当時、岡山の市街地でも戦後の復興は見られず、あちこちに焼跡の広場が点在し、
      これといった建物も見かけない、着る物も食べる物も不自由な時代でした。
       その頃青空幼稚園といって、お天気の良い日に限り、わずかに残骸を留めた小さな公園跡で
      アコーデオンを持った先生が子供達を集め歌や踊り、紙芝居などで遊んでくれていました。
      今でも何にも無い時代の、あの妙に澄んだ空虚な青空が今でもくっきりと心に残っています。
       街にも自分を取りまく家の中にも色彩が乏しく、色に飢えていた僕にとって
      先生のアトリエは子供心にも、それは強烈な印象を抱かせる場所でした。
      油絵の具のうっとりするような美しい色、色、色・・・。異国を思わせる油の香り、
      それまで見たことも無いモダンな絵。
      先生が採集した蝶や甲虫の標本は、自然の造形とも言える色彩と形の素晴らしい作品
      となって僕らの眼を奪い、大きな鳥小屋で飼育される野生の小鳥達の可憐な姿は
      僕らをうっとりとさせたものでした。
       それらから受ける様々な刺激は幼い心にも、現実を忘れさせるエキゾチックな、そして
      経験した事の無い好奇心に満ちた気分を抱かせるのでした。
       今にして思うと、それは子供なりに戦後特有の「自由な気分」を
      満喫していたのだと思います。何にも無い貧しい時代であったからこそ、大きな憧れと夢を
      抱く事が出来た。それを育む楽園とでも言うべき先生のアトリエに出逢った事は
      僕の人生にとって、大きな大きな幸運であったと思います。

 青木正春 (1921-2002)
1921 岡山に生れる
1943 独立美術協会展 入選
1947 東光会展・日展 入選
1949 東光会賞受賞・同会会員
1955 自由美術家協会展 入選
1955 自由美術家協会 会員
1958 第41回ピッツバーグ国際現代絵画展出品 
1963 岡山県美術展審査員
2002 「青木正春の軌跡」出版



      昆虫収集家 平田信夫


 あれは2000年の初夏、六月のある日だった。倉敷市立自然博物館と印字された封書を
受けとってなんだろうと思いつつ少しときめいた。それは正に直感というものだった。
「カミキリムシ展――平田信夫コレクション」御案内
 僕の眼に飛び込んできたその文字は一瞬白い光となって駆け巡ったような気がした。
その瞬間今のいままで封印されていた、あの頃の思い出と情景が甦ってきたのだった。

 平田信夫先生と出逢ったのは今から50年も前の話になる。僕が岡山大学の付属中学に
入学、生物クラブに入部した時だった。先生は理科を教えておられ生物クラブの顧問を
担当されていた。夏ともなれば家の近くの野山を駆け巡り、日の暮れるまで虫取りに熱中
していた僕は迷うことなく生物クラブに入部することになる。
 既に小学生の頃から倉敷昆虫同好会の会員となり、当時の理科少年の必読雑誌「子供の
科学」の昆虫記事の熱心な読者だった僕は、カミキリムシ収集家として有名な平田先生の
ことは知っていた。憧れの先生に出逢った時の印象は今も鮮明に覚えている。
黒ふちの丸い眼がねをかけ、背の高い痩身に白い実験着を羽織、大股な颯爽とした歩調で
僕の前に現れた。「君だね。昆虫同好会の会員は。 どんな虫を採集しているの?」僕は
恐る恐る「モンクロベニカミキリ。ミドリカミキリ。タカサゴシロカミキリ。
タニグチヤハズカミキリ…」
 先生にとっては大したものじゃないと思いつつも僕にとっては飛び切りの採集物を
注意深く選びながら話した。
 先生はどう思っているのだろう。恥ずかしさが先に立ち、ずいぶん緊張したことを
覚えている。
 しかし僕の口から出るカミキリムシに先生の眼は驚きの表情をしている。僕は次第に
有頂天になっていった。当時、校庭の隅で廃校舎となっていた一角に住まわれていた先生
の部屋で標本を見せていただく事になる。その時の驚きは今となってはとうてい表現
することができない。
 空き室となっていた古い教室に山積されたカミキリムシのコレクション。その膨大な
標本箱を前に我を忘れていた自分を思い出す。
 倉敷自然史博物館からの案内状には先生から寄贈された標本3万点と印されていたが、
それは恐らく厳選されたもので僕が見たものはそれを遥かに超える数のものであった
はずだ。先生は同種のカミキリムシも採集地別に分類し、その分布研究と個体変化を観察、
記録されていた。したがって同種のカミキリムシを何十頭も何百頭も見事な標本に
整理されていた。僕が昆虫といっても甲虫類、それも天牛科とも言われるカミキリムシに
熱中していたのはまだ戦後十数年を経た頃で、世の中には食べ物も日用雑貨も着る物も、
全てが不足しており今の時代からは考えもつかない物不足の時代であった。子供を
取り巻く環境も燦々たるもので、遊び道具もおもちゃも本も子供の好奇心や遊び心を満足
させてくれるものは少なかった。
 仕方なく僕らの関心は自然環境に向けられることになる。
 子供の遊び場は、川や、池や、焼け跡の広場(はらっぱ)近くの山や林や野原と
いうことになり、極めて自然に子供達の眼は昆虫や植物、その他の生物に向けられた。
 昆虫好きの少年の大半は蝶を追いかけていたが、僕は何故か蝶の鱗粉が苦手で甲虫、
特にカミキリムシに魅かれた。カミキリムシの持つ立体的な形態の美しさ、その色彩の
見事な美しさに夢中だった。


 真紅の羽根に黒の模様を染めたモンクロベニカミキリ。
金属的な光沢を放つ黒の地にオレンヂ色のストライプ模様のヨスジハナカミキリ。
 金色のメタリックな光を放つ中にグリーンの縦ラインで装ったミドリカミキリ。色彩に
飢えていた僕らの眼にカミキリムシ達が持つ素晴らしい配色の世界は生きた宝石のように
見えたのだった。
 中学生の三年間、春から晩夏にかけて岡山市の東山と言われる地域の丘や林や山を毎日
のように駆け巡り、日曜日や夏休みには長時間バスを乗り継ぎ県北の中国山脈の山々に
ネットと採集箱を持って出かけた。
 カミキリムシを求めての山歩きは虫だけではなく、極めて自然に植物や鳥、地形や
岩石などへの関心と観察につながった。車もめったに見ることの無い、いまだ人の手が
入らない山や谷や草原のたたずまい。広大な風景の様相に刻々と変化を与える陽の光、
流れる風、印象派の画家達がとらえた光と影が生む自然の変化と輝きを無意識に体全身に
感じていた日々であった。秋から冬への季節は採集した獲物の整理と記録のまとめに
費やされ、翌年の夏への意欲を掻きたてる日々となった。今にして思えばあんなに採集に
熱中したのは平田先生を驚かせたい一心だったとも言えなくは無い。
 僕らが見せるどんなカミキリも即座にその名を判定しその生態や特徴を述べる先生が、
その時は保育社の日本甲虫図鑑を取り出し慎重に見比べながら夢中になった眼で
「これはベーツヒラタカミキリにまちがいない。どこで採集したの?」と言われた。珍種
であった。岡山市内の、それも遊園地の展望台の壁にとまっていたなんて。僕は意外な
珍種であることに、先生は意外な場所での採集に興奮していた。
 確かに先生は僕が尊敬し様々な事を教えていただいた先生であったが、カミキリムシを
前にした時は先生と生徒でもなく、大人と子供の関係でもない、カミキリムシに対する
情熱だけに結ばれた友情にも似た感情を僕に与えた。あんなに夢中になれたものが
あった事。それは僕の少年時代にとってとても幸福な時間だった。
 先生との関係は僕の中に人間関係に関する大きな眼を開いてくれたと思う。
 それが思想的な事であれ、科学的な事であれ、スポーツであれ、芸術であれ、何で
あれ純粋にその事に魅かれ情熱を持って向き合っている人間同士の間には自然に
ヒューマンな関係が生まれる。そこは上下関係も立場もプライドも無い。
 僕はそんな人間関係の素晴らしさと幸せを先生に教わったと思う。
 此の文を書きながら、今とても重要な事に気がついた。何故当時、そして今まで、
その事に気がつかなかったのだろう。 ――ベーツヒラタカミキリ―― このヒラタは
果たしてこの虫の形状を言っているのか。いや、もしかしてこのヒラタは発見者の氏名が
付けられているのじゃないか。
 此の疑問は僕の中にあの頃の熱いものを再び甦らせてくれたようだ。





      グラフィックデザイナー 田中一光


 僕が田中一光さんと出逢ったのは確か1958年、一光さんが大阪から東京に出てこられた翌年の夏。
僕が中学二年生の夏休みだったと思う。
 一光さんはグラフィックデザイナー山城隆一さんのお世話で大森の山王に有った東大医学部教授常松之典先生の
屋敷内に有った一戸建ての洋館に住んでいた。
 僕が一光さんと出逢ったいきさつは、僕の姉が常松さんのお家と親しくさせていただいており、
夏休み岡山から東京見物にでかけた折に、姉につれられて常松邸を訪ね、
そこで一光さんと出逢うといった偶然のできごとだった。
 もう50年も昔の事ながらその日の事は今も鮮明に覚えている。庭先から聞こえてくるレコードの音。
当時としてはまだ珍しかったシャンソンのメロディーに魅かれて思わず洋館に足を向けた。たたずんで聞き入っていた
僕に「シャンソン好き?」と突然声がかけられた。振り向くとショートカットで丸顔の青年が笑顔でこち
らを見ていた。
 今思えば、当時一光さんは28歳。ライトパブリシティーで華々しい活躍を始めた頃であった。
 招かれて入ったアトリエは、田舎の中学生の目には見たこともない異空間だった。
 調度品やさりげなく整えられている様々な物の一つ一つがこの部屋の主人の感性を強く主張し、
一点たりともゆるぎない意思によって”完璧な調和”を生んでいた。
 そのあまりにも潔癖なたたずまいに快い緊張を覚えたことを今でも忘れることができない。
 あの部屋にあった全ての物はそれぞれのモダンなデザイン感性を歌っていながら、全体が一光さんら
しいハーモニーを奏でていたと言っていいだろう。
 そのなかでも僕の眼を奪ったのはオーディオ装置だった。
 マランツの真空管アンプにタンノイのスピーカーを組み合わせたもので当時はなかなか見ることの
でき無かったものだった。
 不思議なことにその時なんの曲がかかっていたか、シャンソンであったことには間違いないが、
何故か思い出せない。一光さんと交わした言葉も覚えていない。
 その時の僕は、田中一光なる青年が如何なる人かも、グラフィックデザイナーという存在につ
いても何の知識もなく、ただただ彼と彼のアトリエにただよう感性のウェーブといったものに酔っ
ていたのだった。
 此のひと夏の体験は、僕にグラフィックデザインへの強い関心を抱かせることになった。
 今にしてふりかえれば、1950年代の後半といっても戦後10数年しか経っておらず、目ざましい
戦後復興の途についていたとはいえ、世の中はまだまだ戦火の傷跡がいたるとこにその影を落と
していた。人々は物にも飢えていたし、文化的なものにも飢えていた。そんな時代に新しい時代の
到来を予感させるモダンな香りをいっぱいに含んだ一陣の風のように、視覚的な感性を日本中に伝えた
のが当時のグラフィックデザインのパワーではなかったか。
 その新鮮なワークは戦後の闇から陽の光のある方へ這い出て行こうとする人々の気持ちを引き
立てる大きな糧となったと言っても言い過ぎではないと思う。
 当時はデザインの持つ効用について明確に意識できはしなかったが、僕の中に目覚めたグラフィックデザイン
に対する思いは相当熱いものとなっていった。
 この思いを抑えることができず僕は一光さんに手紙を書くことになる。
「君のグラフィックデザインに対する熱い思いは良く伝わってきましたが、作品の無い君の
能力について今は何も言えません。
 春休みを利用して僕のアトリエに出入りしてみれば…」という返信。
 この時自分の道がサッと開けたような有頂天な気分と、果たして自分にそんな能力があるのか
今さらながら深刻な不安に襲われた。
 それにしても若さでは済まされない、あまりに常軌を逸した僕の申し出に何故一光さんは
あんなに親切な返事をくれたのか。そのときは不思議に思ったが、その後多くの人達に僕が経験したような親身な
対応をする一光さんの優しい面を見ることになる。
 1961年の春、日本デザインセンターから独立した一光さんのデザイン室に通うことになった。
一光さんも若くエネルギッシュで仕事にも恵まれ、デザイン室全体に活気が満ちた緊張感が溢れていた。
 デザイン室の雑用をしながら与えられる幾つかの課題を制作したりしながら10日も通った頃だ
った。仕事の後片付けをしていると一光さんに声をかけられ渋谷の恋文横町あたりの
Jazz Barに誘われた。
 そこで「グラフィックデザインは止めた方がいい。君は色彩感覚が良くない。これは天性のものだ
からね」と言われた。
 自分の能力については課題に向き合う間に自覚することもあって、一光さんの言葉に僕自身
さしてショックも、くやしい思いも持たなかった。むしろ一光さんの僕への細やかな気遣いにとても
感謝したことを思い出す。
 当時の頃を今思い出しても自分の能力を他の誰に否定されようが僕はグラフィックデザイン
の道を放棄しなかったと思う。ただ、一光さんに言われた。それがあの時の僕の全てだった。
未練も迷いも悔しい思いもなかった。逆に澄んだ気持ちで「解りました」と答えることができた。
 誰よりも尊敬している人にここまで真剣に見ていただいたという思いが僕の中で全てを受け入
れ次なるフィールドへと思い立つことが出来たのだと思う。
 それから三年後、確か1965年頃のことだった思う。
 僕は早稲田の学生であったが、慶応から始まった学園紛争の連鎖は早稲田闘争へと広がり
キャンパスも封鎖され連日学生集会によって休講が続くといった状況をいいことに、学校には行かず
同人誌に小説を書いたり、芝居、映画にうつつをぬかしていた。

 そんなある日、国立劇場に文楽を観に出かけそこで一光さんの人形浄瑠璃文楽のポスター
に出逢ったのだった。


 一見して一光さんの作品である事は明白だった。その色彩の持つ深い味わい。赤(R)と緑(G)と青(B)
を際立たせる黒の色面構成。まさにRGBという三原色を基調に古典芸能の持つ
艶やかさと歴史の闇を思わせる、僕にとっては一光さんならではの強い印象が残る作品だった。
 1960年代、グラフィックデザインが持った、その溢れるようなパワーをどう表現すればよいだろう。
絶えず変化する新しい試みは日本経済が右肩上がりの躍進を反映するかのように表現の百花
繚乱と言っていい状況を生み、グラフィックデザインが生み出すデザイン感性は時代の空気、時代の感性
と言ってよいものをリードし、単なる印刷メディアにとどまらず、建築へ、舞台美術へ、
インダストリアルデザインへと様々な分野に大きな影響を与えるようになっていった。
 1960年代は正に日本のグラフィックデザイン界の青春時代であったような気がする。
 一光さんは、その時代を30代で執走したわけで、時代状況と自分の実人生が幸運な出会いを持っ
ていたと言える。
 僕はそんな時代の勢いの中心に有った一光さんの存在を遠くから絶えず意識し何かにつけ、彼を
尺度にものを見るような学生生活を送っていた。そして若気の至りと言うか三年間の音信不通の非礼も省みず、
一光さんへ二度目の手紙を出すことになる。
 一光さんの作品を、その頃心酔していた梶井基次郎の小説「檸檬」を例に賛美の思いを照らう
ことなく書いたものだった。
 返信をいただき、青山三丁目交差点角のAYビルにあった田中一光デザイン室を訪ねることになる。
 1970年の大阪万博日本政府館一号館の展示設計をやるが、手伝わないかというお話しがあり、学
生運動で荒れる大学を一年間休学し田中一光デザイン室で働く事になった。
 この一年間の経験が僕にとって何にも代えられない体験の日々であった事は自分が歳を追うご
とに強く実感する事になる。

 一年にわたって展示設計の雑務に関わった思いも様々だが、僕にとって
何よりも大きな収穫は一光作品の制作過程を側でつぶさに見る事ができたことだった。


 アイディアに集中する一光さんの様子、アイディアフラッシュを様々な形にアレンジしながら
ラフを作る過程、試作から始まる本格的なクリエイティブワーク。
 グラフィックデザインから離れていた僕にとって、その時初めてデザインワークの実体を知る
事が出来たのだった。そして物を作るということへの真摯で誠実な態度と、妥協のない、誰よ
りも自分を納得させる、それが完璧主義と言う事。そして安易にこれで良いという限界を持た
ないということを学んだと思っている。
 作品にとりかかっている時の一光さんからは、あの柔和な表情は影を潜め、ヒステリックなま
でに張り詰めた緊張感をデザイン室にみなぎらせ、時には、やつあたりに近い感情の爆発をスタッ
フにぶつけることもしばしばあった。
 僕らは一光さんのアップダウンする感情の波に汲々とするばかりで、いかんせん一光さんの抱
えている情況をほとんど理解する事ができなかった。
 独り全てを抱え込んだ一光さんの姿を思い浮かべる時、僕らの不甲斐無さを本当に情けなく思うが、
その頃の僕には、一光さんの態度がただただ理不尽なものとしか思えなかった。若さとは
いえ一光さんを理解できないでいた。
 そういったこともあったが、デザイン室で得る事のできた事を思うと、
それは僕にとってかけがえのないものばかりであった。
 その一つは学生の身分で、一光さんのデザイン室を訪れる様々な人を垣間見ることができたこ
とである。



 デザイナー、写真家、イラストレーター、コピーライター、演出家、建築家など
第一線で活躍するクリエイターと言われる人々との交友関係。そして、
これらの人々とのコミュニケーションから生まれた作品を目撃できた事は、その後の僕にとって大きな糧
となった。
 中学生の頃の偶然の出逢いから親切にしていただき、20歳の頃の一年間アルバイトのスタッフ
として内側から一光さんの日常を見つめる事が出来た。これらの体験を過ごして感じた一光さ
ん像は

・とても優しい人だった。いつも人には細やかな気配りをする人だった。
・何事に対しても実に誠実な人だった。
・未知の人との出逢いについて、ロマンチックなまでに好奇心というか、強い期待感を持つた人だった。
・人の集まることが好きだったけれど、孤独感の強い人だったのではないか。
・仕事にも、人にも、社会的な様々な事柄にもとにかく責任感のとても強い人だった。
 これらは誰もが感じた一光さんの人柄だと思う。そしてもうひとつ付け加えるならばその人柄に
感じる潔癖さのようなものに何故か一光さんの中に潜むひ弱さというか、女性的なニュアンスを
感じたのは僕だけだったのだろうか。
 先に未知の人間に強い期待感を持つと書いたが、デザイン室に戻った一年の間、僕は二度もそ
の期待を受け、その期待に応えることができなかった事があった。
 一つはデザインに関する一光さんのメモと談話を基に出版予定の原稿を一稿にまとめる仕事だ
った。
 青山三丁目の一光さんの自宅の一室にこもり資料を元にラフな一稿を書いたのだが、
一光さんの意にかなわずボツになってしまった。あの頃の、そして今の僕にしてもあまりにも荷
の重いことであった。
 もう一つは、中央公論社だったか文芸誌「海」の創刊のエディトリアルが一光さんに依頼され
た時のことである。その「海」という字を毛筆を握った事も無い僕に書いてみろと言われた事が
ある。
 日頃から僕の字を面白く見ていたのか、突然のことであった。
 当然毛筆を使いこなす事が出来ずこれもやはり一見にしてボツだった。
 ダメでも失望しても人に対する好奇心と期待感を多くの人に向けた。始終変わらぬ一光さんの
この態度に僕は、人に対して一光さんはとてもロマンティストであると思った。そして、もちろん才能
ある人を大切にしたが、才能の無い人間にもある期待感を絶えず持っていた一光さんに人間的な
ものを感じたのは僕だけではないと思う。
 その後、大学に復学し就職以後、一光さんが永眠される2002年まで一度もお逢いすることも無く、
音信不通の不肖な人間であった。
 何故そのような情況を作ったか、今でも「どうして」という自問に答えられる言葉が無い。ただ、
広告業界に身を置いた自分の仕事が一光さんに報告できる自負をとうてい持つことができないと
いう強いコンプレックスが足を遠のかせてしまったとしか言いようがない。
 もし自分が広告とは異なることをしていたならば、僕は絶えず一光さんの周囲にいたように思
う。しかし、この30年の歳月一光さんのことを意識しないことはなかった。
 それはこの歳になっても「君は何をやってるの」という優しくも厳しい一光さんの声となって
僕の中でこだましている。
 一光さんの突然の逝去を耳にした時、僕の中に深い喪失感と同時になにか解放感のようなもの
を感じた事を覚えている。
 一光さんの存在は接していた時も、そうでない時も僕にとってあまりにもおおきなものだった。

   


   映画評論家 飯島 正 1902-1996

 僕が先生と出逢ったのは1964年、早稲田で先生の講義[映画の美学]を受講した時であった。
 当時、白水社刊行のクセジュ文庫に収録されていた、アンリ・アジェルの[映画の美学]
テキストに映画理論について、その博覧強記の授業は僕等に強い刺激を与えた。


 この稿を書く為に本棚の奥からみつけたアジェルの
[映画の美学]の頁をめくると、
そこには綿密な書き込みがいたるところに挿入されていた。

 当時は全共闘の学園紛争直前の時代。それでなくても「書を捨てて街に出よう」の実践に
明け暮れていた僕にしては、如何に先生の授業に魅入られていたか懐かしく思い出された。


 先生は東大・仏文の出身で確か渡辺一夫と同級生。フランス文学に精通し映画評論家として
特にフランス映画に関する著作が多かった。

 後に知ることとなるが、先生はフランス語以外に、英語、イタリア語、ハンガリー語、スペイン語、
中国語にも堪能で、研究室の書棚にはそれらの言葉で綴られた無数の本が積み重ねられていた。

 授業ではもちろん、授業を離れた雑談の中でも何気なしに語られる先生の知識の広さに驚き、
また青年のような好奇心の旺盛さに僕等は舌を巻いた。


 僕が先生に強い好奇心を持ったのは、当時心酔していた梶井基次郎の日記の中に、
飯島正の名前を見たからだった。京都の旧制第三高等学校で梶井が参加していた文学同人誌「青空」に
関するくだりにその名前が記されていた。

 果たしてこの飯島正は我々の先生と同一人物か。
 もし同一人物なら梶井のことを聞かせて欲しい。熱い思いを持って先生を訪ねた。
 先生は「青空」の同人であった。
 根掘り葉掘り乱発する僕の質問に先生は遠い日の記憶を思い起こしながら色々語ってくださった。
 正に梶井基次郎の実像に迫る思いもよらぬリアルな証言に僕は我を忘れて酔っていた。
 この時を持って、梶井基次郎と青春を共に過ごした飯島正は僕にとってかけがえの無い存在となった。
 辞して去る時先生は
「君はそんなに梶井に興味を持つのに僕には興味を持たないのかね」と細い眼で笑われた。
 その言葉をきっかけに僕は先生の大学院の授業の聴講を許されることになった。

 僕が卒論に「フランス前衛映画に於けるダダ・シュールリアリズムの影響」を書いたのはその授業で
1940年代のフランス映画、特に前衛映画と云われた作品に関する知識を先生から与えられたからだと思う。
 当時のダダイストやシュールレアリストであった芸術家達のなかで映画に強い関心を持ち
自らも映画に手を染めた画家
フェルナンレジエを始めとする人達のもたらした映画への影響。
 映画人でありながらシュールレアリストとして前衛映画を撮ったルネ・クレール等の作品分析を通して
課題のテーマに迫ろうとした卒論だった。

 先生はこの視点を評価してくださり、様々な助言を下さった。

 先生からは色々な知識は教わったがその後の人生の中で大方の事は忘れてしまった。
 ただ今も耳に響く先生の言葉
「君、偉大なるディレッタントに成りたまえ」は忘れる事が出来ない。
 この言葉をどう捉えるかは様々であると思うが、僕は「好奇心を持って雑多な幅広い知識と情報を持つことで
バランスのとれた常識的知識人になれ」と捉えている。

 当時文学や映画を探求する事は生活を省みない、現実を回避したデラシネ的人生観を生きる者として
世の中からは疎んじられる存在であった。

 しかし先生は生活の糧となる知識以外に重要な知識があることを言いたかったに違いない。
 視覚的によく見る事。そこに点在する知識と情報。そこから感じる事を知的に思考してみる。
 映画を見つめてきた先生のこの姿勢は実人生に於いても正にあり得るべき姿勢ではないか。

「幅の広いバランス感覚のある知的な人」
 先生にうながされた人物像であった。




      詩人・書評論家 疋田寛吉

    あれは1986年(昭和61年)頃の事だったと思う。
    青山の表参道から根津美術館に向かうファッション・ブティックが連なる華やかな通りを
    左折した路地裏にモルタル二階建てのどうみても学生相手としか思えない老朽化したアパートがあった。
    当時はまだ都内のあちこちにこのようなアパートを見る事はあったが、南青山の一角に
    こんなものがあったのかと思わずにはいられなかった。
    人気のないひっそりとした佇まいは時代からも周囲からも取り残され、
    そこだけが時間を停止しているような感じを抱かせた。
    このアパートの2階に、詩人であり、編集者であり、「書」に関する著述家でもある
    疋田寛吉先生の事務所があった。

    僕が先生をお訪ねするまでには次のような経緯があった。
    ある夜、行きつけの酒場で古くからの友人がポツリ「最近「書」を始めたんだ」と言った。
    意外だった。
    彼の語るところによると、タイトルに惹かれて偶然手にした本を読み、「書」に対する考えが、一変してしまったらしい。
    「自分でも「書」をやれるかもしれない。やってみたい」という気持になり、著者を訪ね最近始めたと言う。

    その話が気になりさっそく買い求めた疋田寛吉 著「我流毛筆のすすめ」(読売新聞社)は
    友人が持った思いと同じものを僕にも与えた。
    その中に次のような一文があった。

    そつなく見栄え良く書かれた「書」
    いかにも手慣れて達筆風に書き流された「書」
    排し、人それぞれの気性に良く似通った、
    他人に模倣出来ない筆跡であって、
    同時に何かしら面白いところがうかがわれる書を評価する。
    書の美醜ではなく、書にあらわれた、その人の投影が問題である。

    此の文章に魅かれるものが有り、「書」をやってみる気になったのだが、
    実はもう一つ僕の好奇心を強く惹いた事があった。
    疋田寛吉という人が戦後間もない頃、鮎川信夫・田村隆一・北村太郎・三好豊一郎・
    黒田三郎・中桐雅夫といった詩人が華々しく活躍した詩誌「荒地」の同人であったことだ。
    先生との初対面は畳六畳一間に小さな流しとトイレが付いた部屋だった。

    先生の著述用のデスクが窓を背に置かれ、その前に小さな文机が有り、筆、硯、紙、
    そして古い拓本が用意されていた。
    先生に奨められるままに墨を摩った。
    立ち上る墨の香りが気持を静め、かすかに響く摩り音が快よかった。
    その日は筆を取ることなくおいとましたが、先生は何も言わなかった。

    それから月に二、三度こちらの都合の良い日にお訪ねし、墨を摩りながら
    詩や小説、美術に関する、とりわけ近代の芸術家の書についてのお話を伺うことになった。
    「書」の手ほどきを得る為にお訪ねしていながら、数カ月の間僕は一度も筆を取ることはなく、
    ただ墨を摩り先生のお話を聞く事を悦びとしていた。
    先生も書くことを促す風も無く、僕の摩った墨はいつも手つかずのまま硯の中で黒く光っていた。
    こんな具合で三カ月も経った頃、先生は突然
    「私癌にかかりましてね。
    手術を受けることになりました。
    無事生還できれば六ヶ月後ぐらいに成るでしょうが連絡します。
    もうお逢いできないかもしれないが」と、まったく感情を交えない表情で仰った。

    元々顔色の悪い方と思い、さして気にも留めなかったが、その言葉を聞いて
    愕然とすると共に「そうか」という妙に納得のいく気持が走ったのを覚えている。
    しかし何よりも僕が感じ入ったのは、
    このように自分の死の覚悟を語って動じない先生の腹の座った態度だった。


    その年の晩秋の頃、顔色も良く、すっかり御元気になられた先生と再会する事が出来た。
    再び墨を摩り先生が編集者として深くかかわった
    川端康成・保田與重郎、大岡信といった方々の事。
    「荒地」の同人であった鮎川信夫・北村太郎・三好豊一郎・田村隆一といった
    詩人の話を伺う時間を取り戻すことになる。
    そんなある日先生が「昔の人は「墨摩り三年」」と言ったけど、
    もうそろそろ何か書いてみたらどうかと仰った。
    先生の元に通うようになって、かれこれ一年半になっていた。
    この間僕は先生の話に酔い、「書」に関心を持つことがなかった。
    華やかな表通りの路地奥にひっそりと佇む六畳一間のこの小さな部屋は
    僕にとってタイムスリップした知の空間と言った場所であったように思う。
    小学生の頃のお習字の時間以来、毛筆を握った事のない自分に戸惑いながら
    開き直って、何の脈絡も無く浮かぶ漢字を一字ずつ書いていった。
    恥ずかしい「書」であった。
    意と思いが少しも形にならない自分が嫌になる「書」であった。
    しかしそんな僕の「書」を先生は誉めてくれた。

    1998年お亡くなりになるまでの12年間、先生は欠点だらけの僕の「書」に
    一度たりとも否定的な事は仰らなかった。
    駄目なものにはただ沈黙され、ほんの少しでも良いと思われる点を刻明に見出して、
    とても嬉しそうに喜んでくれた。
    先生の一貫したこの態度は僕だけに向けられたものではなかった。
    先生の部屋があまりにも狭く「我流毛筆の会」会員である我々は、
    時間を調整し合い、日頃互いに顔を合わせる事が無く、
    それぞれの会員に対する先生の接し方を知らなかった。
    先生がお亡くなりになった後、会員から「先生に誉められたから、ここまでこれた」
    という多くの声を聞いた。
    「書」という中々入り難い世界に入れたのも、我々に対する先生の心遣いによるものと痛感した。
    先生との出逢いがなければ僕は決して「書」の世界を楽しむ事にはならなかったと思う。
    偶然であり必然とも言える幸福な出逢いを感謝せずにはいられない。
    先生と接した12年間を思い返してみると様々な思い出が甦るが、
    中でも夏になるとおじゃました北軽井沢の先生の別荘での時間は忘れる事が出来ない。
    1998年 先生の体調が思わしくなく青山の事務所を閉じる事に成り、最後にお訪ねした折
    僕が10年近く愛用していた大筆と硯をいただいた。
    それは先生の形見の品となった。
    いよいよ先生の容態が悪化し、楽天的な僕にも覚悟しなければならない日の予感がよぎるようになった。
    「書」をやって来たとはいえ、全紙に大筆で一字書しかやった事のない自分であったが、
    小筆を持ち、先生にお逢いできて僕がどんなに幸福であったか、そしてどんなに多くの事を学んだか。
    ほとばしる感情に時折涙を拭いながら必死で手紙を書いた。
    上手も下手も無い、ただこみあげてくる思いを無心に綴ったものだった。
    伝えたい思いに集中し、何の飾る心も無く書けば、「書」の技術を超えてそれなりのものに達する事をその時知った。
    それは僕の「書」に対する小さな開眼だったかもしれない。
    書き上げたものは明らかに惜別の手紙であり、先生の病状をあからさまにするようで
    お渡しする事がためらわれたが、御自分の運命についてあれほど淡々とされていた先生である事を思い返し御送りした。

    先生がいらっしゃらなくなってからしばらく筆を持てなかった。
    自分一人では進むべき「書」の方向も見えず、何が良い「書」か皆目見当がつかなかった。
    「書」を止めようと思った。
    先生を失って、自失し「書」から離れた時間が流れた。
    そして二年後の2000年、先生の薫陶を受けた数人の人達と新たなメンバーを加え
    「我流毛筆の会」を再開。現在に至っている。

    人から何かを学ぶ、それには様々な形がある。
    瞬間的に教えられた事を自覚することもあれば、
    ずいぶんの歳月が経てからその事に気付くこともある。
    先生から学んだ事はいつも忘れかけた頃甦る感じで自覚させられるのだった。
    僕が先生から学んだ事は僕に向けられた言葉からではなかった。
    こうあらねばならないという自分を律する生き方じゃ無く、自由で何ものにも囚われる事のない
    ひょうひょうとした態度に漂うお人柄といったものからだった。

     先生は
    ・大方の事に対して、決して怒りをあらわにする事は無く、
     人を誉めても悪口や否定する事はなかった。
    ・自分の利になる事については控え目であった。
    ・良きもの(人間であれ、芸術であれ、文学であれ)に対して、あくなき好奇心の持ち主だった。

    こういった先生に僕は人間の品格と言っても良いものを感じ取っていたのだと思う。



                                    疋田寛吉 著書